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小城市の文化財(考古資料)

更新日:2024年5月31日

 佐賀県重要文化財 

銅戈(どうか)

佐賀県重要文化財銅戈の写真です

指定年月日:昭和52年(1977年)3月11日

所在地 :小城市立歴史資料館(小城市小城町158番地4)

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2本とも牛尾山出土と伝えられていますが、正確な出土位置、時期、状況とも不明です。弥生時代のいわゆる中広形銅戈としては古い形式に属します。全長約30センチで、身はほぼ一定の幅で伸び、脊は身の約1/2で、樋に綾杉文様をもつなど、これらの特徴は九州で発達しました。本資料は弥生時代の祭器を考えるうえで貴重な資料です。

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布施ヶ里遺跡22号土壙墓出土銅釦(ふせがりいせき22ごうどこうぼしゅつどどうこう)

ふせがりいせきしゅつどどうこうのしゃしんです

指定年月日:昭和62年(1987年)3月16日

所在地 :小城市立歴史資料館(小城市小城町158番地4)

布施ヶ里遺跡は小城市小城町布施ヶ里に所在し、脊振山地南麓に祇園川によって形成された扇状地上に立地しています。遺跡は弥生時代中期から後期にかけての集落跡で、そのうち22号土壙墓から銅釦3点が出土しました。

本遺跡の銅釦の時期については、22号土壙墓から一緒に出土した土器がないため確定できません。ただ遺跡内におけるほかの遺構群との関係や銅釦出土例から推察して、弥生時代後期のものと考えられます。

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寄居古墳群出土遺物(よりいこふんぐんしゅつどいぶつ)

寄居古墳出土の方格規矩四神鏡の写真です

指定年月日:平成2年(1990年)3月20日

所在地:佐賀県立博物館(佐賀市城内1丁目15番23号)(Googleマップで表示)

※方格規矩四神鏡は小城市立歴史資料館

寄居古墳群は小城市小城町晴気、天山山系の笠頭山から東に伸びた丘陵端上に位置しています。高速道路建設に伴い古墳時代前期の古墳3基が調査され、方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)1面や、鉄剣、鉇(やりがんな)、鉄斧などの副葬品のほか、供献土器等が多数出土しました。時期は4世紀前半と推定され、佐賀平野における古墳文化の成立を考えるうえで欠かせない貴重な資料です。

特に方格規矩四神鏡は破砕された状態で検出されましたが、元々完形で径17.7センチ、中国で後漢時代に制作された優品で、青龍・白虎・玄武・朱雀の四神図を方格規矩の構図に収め、神仙思想を表す銘文を周囲に巡らしています。後漢時代の鏡で、しかも完成品が古墳から出土する例は全国的にも数少ないものです。弥生時代に伝来し、宝器として大切に伝世されていたものが、古墳文化の到来を待って族長墓に供献されたものと考えられ、その取り扱われ方が注目されます。

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生立ヶ里遺跡出土木製品(うりゅうがりいせきしゅつどもくせいひん)

うりゅうがりいせきしゅつどのそうのしゃしんです

指定年月日:平成10年(1998年)5月11日

所在地 :小城市立歴史資料館(小城市小城町158番地4)

生立ヶ里遺跡は牛津町乙柳(牛津町東部)にあります。平成3年度(1991年度)に国道34号拡幅工事などの工事着工前に発掘調査を実施し、弥生時代、古墳時代、そして平安時代の遺構および遺物を数多く検出しました。特に、弥生時代中期前半(約2,100年前ごろから)の集落跡の井戸跡や土坑からは当時の生活様式を示す貴重な木製品が多数出土しました。その種類は儀式に使う木剣などの儀器をはじめ杵や臼、平鍬などの農具あるいは木皿、杓子など日常生活用具におよびました。

木製品は腐食しやすく、良好な状態で出土することはごく稀ですが、生立ヶ里遺跡からは当時の人々の生活・文化様式を如実に物語る多種多様な木製品が出土していて、考古学的見地からみても重要な位置づけを担っているといえます。特に、杵・臼・鍬などの農具は佐賀平野に成立した弥生農耕集落を研究する上で貴重な資料です。また漆塗り槽や木剣などの儀器、あるいは木皿・木匙・杓子などの日常生活用具は人々の生活様式を知る上で貴重な資料です。

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土生遺跡群出土青銅器鋳型附弥生土器・土製紡錘車(はぶいせきぐんしゅつどせいどうきいがたつけたりやよいどき・どせいぼうすいしゃ)

土生遺跡群出土の青銅器鋳型の集合写真です

指定年月日:平成11年(1999年)5月10日

追加指定年月日:平成18年(2006年)3月31日

所在地 :小城市立歴史資料館(小城市小城町158番地4)

土生遺跡は、佐賀平野西部に立地する弥生時代中期前半を中心とした遺跡です。平成4年度(1992年度)の発掘調査で銅鉇(どうやりがんな)鋳型、平成13年度(2001年度)に青銅器鋳型が2点、平成14年度(2002年度)に青銅器鋳型が4点相次いで出土しています。土生遺跡の北東部に位置する仁俣遺跡では平成8年度(1996年度)に、弥生時代中期前半の土器とともに銅矛鋳型1点出土しています。また、土生遺跡の西から南西部に隣接する久蘇遺跡では、平成14年度(2002年度)に銅矛鋳型が出土しています。この3つの遺跡を総称して、「土生遺跡群」と呼んでいます。銅鉇鋳型と弥生土器・土製紡錘車は平成11年度(1999年度)に指定され、そのほかの青銅器鋳型や銅矛鋳型は平成17年度(2005年度)に追加指定されました。

銅鉇鋳型は史跡指定地の北方300メートルの位置で発見されたものです。この調査では弥生時代中期の掘立柱建物跡等の遺構群が確認されていて、鋳型は柱穴から出土しました。同じ柱穴から出土した土器片から、弥生時代中期初頭から中頃のものと考えられます。

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踏鋤(ふみすき)

土生遺跡出土踏鋤の写真です

 

 

 

 

指定年月日:平成27年(2015年)4月24日

所在地 :小城市立歴史資料館(小城市小城町158番地4)

土生遺跡から出土した踏鋤は、柄・鋤身・つば・くさびの四部材から構成される木製組み合わせ式の農耕具です。朝鮮半島に由来するもので、直接もたらされたと考えられています。本資料は平成13年度(2001年度)の発掘調査の際に弥生時代の河川跡より組み上がった状態で出土しました。鋤身がふたまたに分かれた形式のもので、その一方は欠損しているものの、使用時の形態を良好に保っています。柄・つば・くさびと比較して鋤身の損耗が著しいことから実際に使用されていたものと考えられます。組み上げた状態での長さは約153センチです。

韓国では「タビ」と呼称され、近年まで田畑の耕作に使用されていました。使用方法は両手で柄を持ち、片足を踏み込んで後退しながら土を掘り返していくというものです。組み上がった状態での出土は日本・韓国を含めて初めてです。本資料は弥生時代中期前半に在来の弥生人と朝鮮半島からの渡来人が一緒に生活をした集落である土生遺跡を特色付ける出土品であり、朝鮮半島との交流を示す格好の資料として貴重なものです。

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小城市重要文化財

丁亥年銘刻書紡錘車(ていがいねんめいこくしょぼうすいしゃ)

丁永遺跡出土刻書紡錘車の写真です

指定年月日:平成20年(2008年)12月22日

所在地 :小城市立歴史資料館(小城市小城町158番地4)

この紡錘車は円盤型の石材に穿孔を施し、糸巻き棒を差して繊維にひねりをかける際に使用された弾み車です。本資料は平成19年度(2007年度)の小城中学校新築工事に伴って行った発掘調査で出土しました。片状蛇紋岩で製作されていて、上面および下面は丁寧な研磨が施されており、上面は「丁亥年 六月十二日 ※十」と線刻されています。刻まれた文字は中国六朝風の古様の字体の特徴をよく遺しています。

干支表記は大宝律令施行(西暦701年)以前の木簡にみえる書式で、大宝律令施行以降は年号表記が通例となります。刻まれた文字の特徴や共伴した土器片の観察から、本資料は大宝律令施行以前のものであると考えることができ、「丁亥年」は西暦687年にあてはめることができます。このことから、現段階で出土している資料としては、国内最古の紀年銘を有する紡錘車ということになります。

※…木へんに是

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社遺跡出土いろは歌墨書土器(やしろいせきしゅつどいろはうたぼくしょどき)

いろは歌墨書土器の写真です

指定年月日:平成29年(2017年)3月23日

所在地 :小城市立歴史資料館(小城市小城町158番地4)

いろは歌墨書土器は、残存口径8.6cmの素焼きの小皿で、平安時代後期に作られたと考えられています。外面には、いろは歌の冒頭部分を4行に分けて平仮名で墨書しています。いろは歌は、4句47文字を用いた七五調の今様の歌で10世紀末から11世紀中頃に成立したと考えられています。土器にいろは歌を墨書する行為については、貴重な紙の代わりに荘官などが文字の手習いを行ったものとされています。

この墨書土器が出土した社遺跡は、小城市三日月町の最南部で嘉瀬川の右岸に位置し、平安末期には事実上平家領であった大宰府領安富御領(安富荘)に含まれていました。発掘調査の成果より有明海や嘉瀬川を臨む港湾としての機能が確認され、本資料の他にも「西家」や「廣主」等の墨書・刻書土器が出土したことから、一般集落とはやや異なる集落と言えます。荘園の発達によって貴族風の文化が地方に広まるなかで、嘉瀬川流域の社遺跡にもその文化を受容できる集落が形成されていたことを裏付ける資料であり、地方での平仮名の普及時期を考察するうえでの資料としても貴重です。

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土生遺跡出土木製品(はぶいせきしゅつどもくせいひん)

土生遺跡出土木製品の写真です

指定年月日:令和4年2月24日

所在地 :小城市立歴史資料館(小城市小城町158番地4)

土生遺跡は、佐賀平野西部に立地する弥生時代中期前半を中心とした遺跡です。大量の弥生土器とともに青銅器鋳型や朝鮮系無文土器が出土し、非常に良好な状態で出土した木製品とあわせて、朝鮮半島とのつながりが深いと考えられます。この朝鮮半島とのつながりは土生遺跡の性格に特徴づけられます。

木製品はその腐食しやすいという性質上、遺存状態は遺跡の立地条件に左右され、良好な状態で出土することは極めて稀なことです。そのような稀有な状況で出土した本資料は、農具や工具、生活用具、建築部材、井戸枠、祭祀具などに大きく分けられ、計85点を数えます。
土生遺跡においては当時の人々の生活や文化様式を物語る多様な木製品が出土したことによって、国内において初期農耕社会が確立した弥生時代中期の様子を窺い知ることができる貴重な資料です。
 
※平成27年に県指定重要文化財に指定された「踏鋤」は本資料には含まれておりません。

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石木中高遺跡出土 土偶 附土製品(いしきなかたかいせきしゅつどぐう つけたりどせいひん)

石木中高遺跡出土土偶の写真です

指定年月日:令和5年2月24日

所在地 :小城市立歴史資料館(小城市小城町158番地4)

石木中高遺跡は、弥生時代早期の集落遺跡で流路跡、掘立柱建物跡、土坑、小穴等の遺構が確認されました。土偶、土製品が出土した流路跡は調査区内をゆるく蛇行して南流し、内部からは弥生時代早期に使われていた夜臼(ゆうす)式土器や石斧の柄や杭状木製品などが出土してました。

土偶は、その多くが縄文時代にみられ、形はデフォルメされた表現するもの、やや立体的な表現をするものなどがあり、その像容から女性を表現しているものと考えられます。

石木中高遺跡から出土した土偶は残存高10cmで、腰より下の部分のみの出土のため性別は不明です。大腿部、ふくらはぎ、五本指等が明瞭に表現されています。佐賀県内出土の土偶としては佐賀市久保泉丸山遺跡、唐津市宇木汲田遺跡に続いて3例目の資料で全国的に見ても最終段階の土偶の一つであり、土偶とととも出土した土製品2点についても現在のところ類例がなく、小城市の弥生時代早期の様相を知る上で貴重なものです。

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丁永遺跡出土連弧文昭明鏡(破鏡)附6号甕棺 碧玉製管玉 供献土器【ちょうながいせきしゅつどれんこもんしょうめいきょう(はきょう)つけたり6ごうかめかん へきぎょくせいくだたま きょうけんどき】

連弧文昭明鏡の写真です

指定年月日:令和5年2月24日

所在地 :小城市立歴史資料館(小城市小城町158番地4)

連弧文昭明鏡は、佐賀県内の8例が発見されており、いずれも甕棺墓など墳墓からの出土しています。完全な形のものは3例、打ち割られた完鏡は3例、鏡片(破鏡)は2例が確認されています。なかでも本資料は、埋納時に鏡片を更に打ち割るという県内では類例がない資料です。
 
中国からもたらされた舶載鏡を打ち割り、埋納する方法は、弥生時代後期はじめに佐賀平野東部地域で出現し、中部地域へと広がることがわかっていました。舶載鏡を打ち割り埋納する行為は、小城市周辺では古墳時代初頭の寄居古墳出土方格規矩四神鏡(県指定重要文化財)が知られていましたが、この資料は寄居古墳より古く弥生時代後期前半に遡る資料です。
このことから、この連弧文昭明鏡は、小城市周辺では明らかにされていなかった弥生時代後期の有力者の存在を明らかにするとともに、弥生時代後期に舶載鏡を打ち割り埋納するという佐賀平野に共通する葬送儀礼が佐賀平野西部まで及んでいたことを示す資料として貴重です。

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問い合わせ

小城市教育委員会 文化課/梧竹記念館/歴史資料館
〒845-0001 佐賀県小城市小城町158番地4(桜城館内)
電話番号:0952-73-8809/0952-71-1132(平日、土曜日、日曜日 8時30分から17時15分まで) ファックス番号:0952-71-1145
メール:bunka@city.ogi.lg.jp
 

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